「持たざる者の逆襲」ストリートフォトグラファー小儀昌弘さんインタビュー

あの東京コレクションの公式フォトグラファーに選出され、また匿名のまま日本のストリートカルチャーの〝失われた十年〟を世界に発信し続けた立役者として海外でも定評のある小儀昌弘さん。

フォトグラファーとしての実績はもちろん、様々な事業群を経営する実業家としての顔も持つ小儀さんのその足跡に迫ります。

 

―まずは簡単な自己紹介をお願いします。

COLORS読者の皆さん初めまして、小儀昌弘です。

ファッションフォトグラファーと、広告代理店PARADE GROUPの代表を務めています。

フリーランスのクリエイター集団からなるインディペンデントな事業体を組織し、
主にウェブやSNSを駆使して販促にまつわる諸々のお手伝いをしています。

広告の企画制作からメディア運営、モデルやタレントの手配、衣装のリース、カメラマンやヘアメイクの派遣等全てですね。

小儀氏ディレクションによるファーストリテイリング社『ヒートテック』PRビジュアル

 

暗黒期の学生時代。

―ご自身が現場に経営にと幅広くご活躍されていますが、小さい頃からそのような行動力がおありだったのでしょうか?

今の小儀さんが形作られるその生い立ちから紐解いていきたいと思います。

いやー、子供の頃はまさに暗黒時代でしたね。

家庭の事情で転校を繰り返していたので、よくいじめられた小学時代から始まり。

中高では部活に打ち込むことも不良になりきる事も出来ずに、オタクのコミュニティ内だけで中途半端に粋がることで何とかプライドを保ってましたし。

惰性で進学した三流商業大学ではサークルやゼミで充実する男女の輪に入れなかった為、食堂での居心地も悪く、一人図書館で過ごすキャンパスライフでした。

ただ異常に好奇心と行動力だけはあったので十代の後半からは、個人でも出来る音楽活動や創作活動に手を出すわけですが、
今思えば日々何者かになりたいと夢想するだけで結局どれも物にならず、ただの拗らせた少年だったと思います。

 

―とは言え、当時の創作活動が芽となり、現在のご活躍に繋がっていったわけですよね?

それがそんなに綺麗にもいかないんですよね。

その頃はバンドやポエム、ポートレート等で活動していたのですが、就職前後のタイミングで一旦全てを止めてしまうんです。

正直働きたくなかったですが、大学も八年居座り続けていたのでさすがに年貢の納め時だろう、と。

嫌でも働かなきゃならなかったので、
「どうせ同じ時間を捧げるなら、成功者の更なる金儲けを手伝うよりかは、平均的な生活さえ不自由な障害者さんのお手伝いをした方が幾分マシだな」
という消去法だけで福祉職に就いたんです。

しかしそこでも志を持って福祉を学んできた同僚達と違い、無資格のまま後ろ向きな理由で職業選択した自分は負い目を感じることとなりました。

モデル等と密に共有を図りながら、完成イメージに近づけてゆく

 

自己顕示欲と自己表現を同時に満たすことの出来るファッションに夢中になった。

―福祉をやっていたとは驚きです、全くイメージがない!

ではそのような他業種から、しかも服飾や写真を学んできたわけでもなく、どのようにファッションの世界に入ったんですか?

就職してからはある程度自由にお金を使えるようになりますよね。

誰とも関わることなく、自己顕示欲と自己表現を同時に満たすことの出来るファッションに夢中になった当時の僕は、裏原宿にある行きつけのショップによく入り浸るようになりました。

丁度裏原ブームの末期、間もなくファストファッションという黒船が国内ドメスティックブランドを淘汰する直前の、最後の残り香のような時代です。

その店は歳の近いオーナーがマンションの一室で立ち上げたばかりの、こじんまりとした個人経営でした。

オーナーの人柄のおかげもあって、すぐに服を買わない日でも店内でお酒を飲むようになったり、閉店後にゲーム大会をしたりと、次々に仲間が増え本当に居心地が良かったんです、大人の部室と言うか。

そこに溜まっていた客の一人と意気投合し、ストリートスナップサイトを始めようという流れになりました。

着飾った衣装と全く対照的な猥雑な路地裏で撮ることで、より被写体を引き立てる独自の作風が小儀氏のスタイル

 

僕等は言わばオーロラの定点観測者でしかない。

―ここで初めて私の知っている小儀さんに繋がりました、その一つの小さなショップから全てが始まったんですね。

もしその時違う店に入っていたら、現在の小儀さんのキャリアが無かったと思うと感慨深いです。

もちろん最初の内は実際のファッション誌でもなければ、ネットでも知名度の低いメディアだったので、
表参道にあってまるで場違いな僕等が道行くお洒落な人に声をかけても相手にもされませんでした。

けれどエッジの立ったオリジナリティある着こなしを撮り重ねていく内に、あれよあれよという間にアクセスが跳ね上がり、気付いたら原宿では知らぬ者のいないくらいのサイトに成長しました。

だから僕等に才能があったから上手くいったというよりは、撮影させてくれた名も無きファッショニスタ達のセンスのおかげなんです。

僕等は言わばオーロラの定点観測者のようなもので。

それでもサイトの認知に伴って、見下してきた業界人は以前から知り合いだったかのように声をかけてくるし、
ファン達は僕等に撮られたくて地方から出てきては何度もローソン前(当時のストリートスナップハントのメッカ)を往復するようになりました。

その時僕が撮った作品の中にはデビュー前のきゃりーぱみゅぱみゅちゃんも、今をときめく俳優の成田凌君も居たし、
企業からの広告案件や、芸能界から撮影のオファーも舞い込んで来るようになり、影響力と収益化の両輪が上手く回り始めるようになったんです。

オリコン1位のアイドルグループ『BiSH』のメンバーとフロントロウでショーを観覧

 

ー目の覚めるようなサクセスストーリーですね。

一昔前まではファッションに強いカメラマンに弟子入りし下積みを重ねたり、出版業界に入れなければ仕事にすることはおろか発信することも出来なかったものが、
やはり個人レベルでネット発信出来るようになったことが大きかったんでしょうか?

そうそう、SNSが現在のようにネイティブになってしまう前の過渡期であったこと、日本のデコラティブだったりサブカルMIXだったりする独自のカルチャーが海外でバズりやすかったこと等、時流に乗ったのは間違いないですよね。

丁度アメブロで個人が収益を上げれるようになった頃でしたし、
海外でもファッションブロガーがセレブ並みの扱いを受けていました。

そんな風に僕等の影響力が大きくなるにつれ、次第にモデルやスタイリスト、デザイナーの卵達が集まってきて、
自然発生的にファッションショーやパーティーをオーガナイズしたり、オリジナルブランドを立ち上げるようになり、徐々に組織化していったんです。

皆が皆同じようなファストファッションを着るようになったり、ノームコアの台頭とか、原宿のキッズ達も下火になってしまったシーンにフラストレーションが溜まっていたのかも知れませんね。

SNSを駆使したガールズフォト×ストリートブランドのプロモーション戦略は多くのデザイナーが絶大の信頼を置く

 

持たざる者の逆襲。

―あの時のストリートシーンの影響力はすごかったですよね。

インスタグラムが今ほど浸透する前だったのでファッション誌以外の情報ソースが少なく、
ストスナ常連だった子達が一夜にして次々と次世代アイコンになったり、自分のブランドを立ち上げていく様を目の当たりにしました。

裏原ブームが崩壊し、明治通りにH&M、F21が次々と乱立し、国内ブランドの大人達が海外の巨大資本に飲み込まれる中、「この場所は俺等で守るんだ!」って勝手にストリートを代表した謎の使命感と一体感が生まれてましたからね。

明らかにアパレル企業やプロモデルより、僕等アングラクリエイターや読者モデルの方が闘っていて、
「革命はテレビには映らない」を地で行ってました(笑)

結果、海外メディアから取材が来たり、お偉いさん達から接待を受けたり、夜毎女の子達を呼んでお酒を空けたり、通帳のゼロが一つ増える度に「俺達は成功者だ!」と熱狂しました。

一ファッションサイトから始まった小さなコミュニティはもはやムーブメントになりつつあって、
その中心の一組には間違いなく僕等がいました。

でもそんな僕等にも一つだけ叶えていないことがあって、それが東コレのカーペットを踏むことだったんです。

どれだけストリートで力を持ったと言っても僕等のいるアンダーグラウンドシーンと、シーンの権威である東コレは交わることの無い別世界だったんですね。

パリ、ミラノでもそうですが、基本的にショーへの一般来場は不可で、TVや雑誌等のメディア枠、影響力のある芸能人やモデル枠、その他一部招待される上客やバイヤーだけが入るものでした。

僕等も何度かトライしたんですがその度門前払いされ、会場の外でセレブを出待ちしてゲリラでスナップハントをするくらいが関の山だったんです。

しかし2010年に『PHENOMENON』(ラッパーがデザイナーを務めるストリートブランド)が東コレデビューを飾ったり、翌年には海外の流れに続くようにようやく日本でもwebメディア枠が新設され、いよいよ大人達も僕等を無視出来なくなっていった。

事務所のポストはすぐに錚々たるブランド群からのインビテーションの山で溢れかえりました。

「TV局じゃないから」、「出版社じゃないから」と頭の固い老害が時代の流れについていけなかっただけで、
感度の高いデザイナーやブランドは、もちろん僕等のことを知って下さっていて今か、今かと待っていてくれたんですね。

すみません、言葉が荒くなりましたんでコンプラに引っかかるならカットして下さい(笑)

世界の名立たる一流カメラマンが肩を並べシャッターを切る、ランウェイ正面のフォトブースの緊張感はさながら戦場のよう

 

―いえ、そこが小儀さんの良いところなのでカットしません、私が責任持って怒られます(笑)

小儀さんの凄いところは芸大や文化(服飾の名門校)でエリートコースを歩むわけでも、大手マスメディアに属すわけでもなく、何の後ろ盾も持たずに独学で切符を掴んだ。

ドレスアップした女優や高級スーツのお偉い方の中、セレブでもマスコミでもない第三勢力としてピアスにタトゥーだらけで登場した小儀さんら気鋭メディアの存在はまさしく台風の目でした。

言わば「持たざる者の逆襲」なんですよね、それが痛快ですし、今も下の世代と話していても敬意を持って小儀さんのお名前が挙がる由縁なんだと思います。

おぉ、そのパンチライン超格好良いですね、スピーチの機会で使わせてもらいます!

よくそういう「対エリート!」、「反体制!」みたいな構図で扱ってもらえることが多いですが、
別に僕等だけの力じゃないんですよね。

僕等無名のストリート出身者がレッドカーペットを踏めるようになったのは、間違いなくウェブメディアが生まれるもっとずっと前から青木さん(伝説のインデペンデント誌『STREET』の創刊者)やシトウさん(日本を代表するストリートフォトグラファー)が道を切り拓いてくれていたから。

僕等のやってきたことなんてそこに便乗させてもらい、かつたまたま機運も高まってたタイミングだっただけで。

まあ、そんなこんなでそれぞれに本業を持っていた僕等ですが、さすがに比較にならないほど規模が大きくなり過ぎた為、正式に事業化し今に至るわけです。

東コレ会期中に期間限定で結成される、世界の実力派フォトグラファー、エディター、デザイナー、インフルエンサーからなるドリームチーム

 

誰にでも出来ることをやり続けていたら、やがて世界が変わった話。

―謙遜しますねー、では先人達の轍をwebでなぞることと、時代の流れに乗ったことだけで今のご自身の成功があるとお思いですか?

うーん、成功の秘訣と言うには平凡過ぎる答えなんですけど、やはり継続は力なりですよ。

僕がやったことと言えば、街行くお洒落な人に声をかけて、写真を撮って、ネットに上げただけ。

誰に出来ることでも、十年続けていたら世界が変わった。

もちろん何をやるにしても誰も見ていない所で一生懸命やっても発展しようがないので、
見せ方、見せる場所、絡む人とか、多少の試行錯誤は必要だけど、結局は「やるか?やらないか?」だけの話ですよね。

よく「有名人と仕事が出来てすごい」とか「華やかな世界にいて羨ましい」とか言われるんですが、
僕は地べたに座ってノーギャラで一般の子達を撮っていた頃と何も変わってはいなくて。

勝手に周りが僕の見方を変えていっただけなんですよね。

あとはとにかく全方位に夢を語ること。

これは絶対大事、消極的で悪目立ちや恥を恐れる日本人気質の中では、それをするだけでもまず一目置かれるから。

そして自分に能力がなくても頑張ってる姿が皆に伝われば、それを補ってくれる仲間が必ず集まってくるから。

だから少なくとも今の僕を成功と呼んでくれるのであれば、このくらい誰にでも叶えられますよ。

今だってこうして、ただの服馬鹿が路上で写真撮ってベラベラ喋り倒してただけなのに、インタビューしてくれてるじゃないですか(笑)

東コレアンバサダーを務めるハリー杉山氏とのオフィシャル対談に抜擢された一コマ

 

夢を叶えた奴が次の誰かの夢を応援することは義務。

―実際に叶えている人の言葉ですから心強いです。

それでは今後の展望を聞かせてもらえますか?

三十代の内に必ずモデルのスクール事業を立ち上げます。

僕がそうしてもらったように、夢を叶えた奴が今度は次の誰かの夢を応援することは義務なので。

ファッションフォトグラファーをやっていると毎月数え切れないほどのモデル応募や進路の相談があるのですが、
ご存じの通り、なりたくとも供給に対しあまりに需要が少ない世界なんですね。

華やかで、皆に憧れられるモデルの世界、
夢はあれどそれをお仕事に出来るのはほんの一握りです。

でも体一つで出来る職業だったり、インスタとかで簡単にその世界を垣間見れちゃうからこそ軽んじている子達が多過ぎる。

だからこそ、素質がある子らには厳しく技術や心構えを備えてもらい、現場で必要とされる、ファンに愛される人材を育成します。

また一方で、モデルが職業にならなかった子達にとっても、宝塚や甲子園と同じで夢叶わなくとも努力を重ねたその過程は決して無駄にはならないので、
その子達の人生も充実させる場所にしたいと思っています。

例え全員がプロを目指さなくとも、ジュニアからミセスまでまるでジムや習い事のように気軽にモデル活動を楽しむことが出来る、そうしてこの国の女性が自信を持てるようになる日本初のスクールを経営したいです。

駆けつけたファン達と交流する一コマ、地べたに座り若者と同じ目線に立ってアドバイスを送る姿が印象深い

 

人目を気にせず好きなものを好きと言える強さを。

―最後にCOLORSのコンセプト「十人十色のライフスタイル提案」にちなんで、
「自分らしく生きたい」と思っている読者層にアドバイスを頂けますか?

逆に僕が聞いてみたいです、一体何が怖いの?って。

人の目や体裁を気にして、一生自分らしく生きれないまま死ぬ方がよっぽど怖くないの?って。

例え何か言われたとしても、話の主語になった時点で自分が主役で、それを口にしてる奴等は名も無き脇役じゃないですか?

そいつらはRPGで言うところの最初の町から一歩も出ないモブキャラと同じなんで何も気にならないですね、
「死ぬまでそうやって同じ台詞吐いてろよ」って。

それより一歩踏み出してから広がる冒険の方が楽しみで仕方無いし、その道中には必ず同じ志の仲間との出逢いも待っているから決して孤独にもならないしね。

―その例え言い得て妙ですね。リスクや悪目立ちを恐れて現状維持を選んでしまう日本人気質そのもので、
ものすごくしっくり来ます。

でしょ?上手いこと言おうとして例えが見事にオタクっぽいところが格好付かないですが(笑)

うーん、アドバイスにはならないと思いますが、「自分らしさって何だろう?」って思う人は今度の休みにでも原宿に遊びに来て下さい。

この街は自由ですよ。

流行も、立場も、他者の目も、異性からのモテすらにも縛られず、
それぞれが心から自分の好きな、思い思いの服を着て闊歩する人々を目にすることでしょう。

ここではそれによって浮くことも、優劣も、線引きも無いし、性差も世代も人種も関係無いんです。

いつしか植え付けられた既成概念から解放され、自分らしく生きることの出来る、好きなものは好きと言える、そんなヒントがこの街にはあるのかもしれません。

よくファッションは「第二の皮膚」とか「内面の一番外側」なんて例えられますが、組織に定められた着こなしや業界が勝手に決めたトレンドなんかじゃなく、やはり一番輝いているファッションはその人のアイデンティティが感じられるもの。

それってファッションに限らず、生き方そのものなのかも知れません。

あなたらしさ、日本人特有のくだらん同調圧力や、しがらみに捉われない自分だけの生き方を共に模索していきましょう。

(了)

小儀昌弘


ストリートフォトグラファー/PARADE GROUP代表

 

東京ストリートで十年以上に渡りファッションスナップを撮り続け、多様なアイデンティティーを発信。

「自分自身はデザイナーでもモデルでもないから」と匿名性を活かしたゲリラファッション集団を組織し、
ウェブとストリートをクロスオーバーする次世代型プロモーションを展開。
旧態依然だったファッション界に新たな潮流を作った。
現在は本名を解禁し、当時の経験からPR事業を中心に、そこから派生する関連事業を複数経営する実業家としても活躍。
座右の銘は〝今日が残りの人生の最初の日〟。

 

インターネット広告代理店『PARADE GROUP』:http://parade-pr.com